結局、この日朱莉は明日香と翔の件ですっかり落ち込み、食欲が薄れてしまい折角の魚料理をあまり食べる事が出来なかった。エミは折角の料理だからと言ってお店の人にコンテナボックスを頼み、今夜のおかずにするから気にしないでと言って笑ったが、朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。「本当に折角連れ出して貰ったのに、申し訳ございませんでした」ホテルまで送って貰うと朱莉は何度も何度もエミに頭を下げた。「あら、いいのよ。全然そんな事気にしないで。それにしても本当に大丈夫? 顔色が悪いから心配だわ。そうだ! 何か栄養のあるものを後で届けてあげるわ!」「いえ、そんなそこまでしていただくわけにはいきません。エミさんも今日は私の事は構わず、お休みください」恐縮する朱莉。「何言ってるのよ、アカリ。夕方6時に迎えに来るわよ。2人で出かけるからね」「え……ええっ!? 出掛けるって……一体何処へ!?」「アカリはまだ若いんだから、もっと羽目を外すこともするべきなのよ。いい? 18時にホテルの部屋に迎えに行くから、体調管理をして待っていなさいよ? 約束だからね?」エミは朱莉に無理やり約束をさせると、車に乗って去って行った。****ホテルの部屋に戻り、ベッドに横たわると朱莉はポツリと呟いた。「ふう……エミさんて意外と強引なところがある人なんだな……」でも、正直嬉しかった。まだ会って数日しか経っていないのに、明日香の前に立ち塞がって朱莉を守ってくれたこと……。あの時、本当は涙が出そうに成程朱莉は嬉しかったのだ。(本当は欲を言えば、翔先輩に庇って貰いたかった……)でも……それは夢のまた夢。鳴海翔の一番は高校時代から常に明日香だったのだ。今更と言われても、どうしても朱莉は期待してしまっていたが、その結果は……? 翔は朱莉を見る事すらしなかったのだ。「もう翔先輩には何も期待したら駄目なのかな……?」朱莉はいつの今にかそのままベッドの上で眠りに就いてしまった—―****その頃、明日香と翔の部屋では――「悔しい!! 何故私がたかがガイドごときに馬鹿にされなくちゃならない訳!?」高級ブランドのショルダーバックを乱暴にベッドに投げつけた。「おい、明日香! 少しは落ち着けって!」翔は明日香を宥めるのに必死である。「煩いわね! 元はと言えば翔がいけないんでしょ! 突然あのレスト
「そんな誹謗中傷を書き込んで、正体がバレたどうするつもりなんだ? もう少し俺達の社会的立場を考えて行動してくれ」「うるさい! 翔!」明日香は吐き捨てるように言うと、隣室に入って強くドアを閉めてしまった。「明日香! 明日香!」翔がドアをドンドン叩いても中から返事は返ってこない。「ふう……」翔は疲れ切った表情でため息をつくとソファに崩れるように座り込んだ。ここ数日、明日香のヒステリックが起きる頻度が増えてきている。やはり精神安定剤を一時的に中断しているのが良く無いのだろうか?2人でモルディブへ観光に来れば明日香の機嫌も直ると思ったのに……それは大きな間違いだったのかもしれない。しかし、翔の頭の大半を占めていたのは明日香ではなく、実は朱莉の方であった。(可哀そうな事をしてしまった。まさか彼女がガイドの女性とあの店に来ていたなんて。あらかじめ連絡を取り合って、鉢合わせしないようにもっと配慮すべきだったのだろうか……)いや、そうじゃないなと翔は思った。明日香のヒステリーが酷くなっても止めて、朱莉に謝罪するべきだったのだ。あの時の朱莉の怯え切った目と、青白い顔に小刻みに震えていた小さな身体が脳裏に焼き付いて離れない。今の段階の契約では朱莉との結婚生活は6年だ。契約書を見直して、もっと渡す現金を増やしてあげるべきなのかもしれない……。そこまで考えていた時、突然ドアが開けられて明日香が部屋から出てきた。「! あ……明日香。お前、一体なんて恰好をしているんだ? 何処かへ出掛けるつもりなのか?」翔は声を震わせて尋ねた。胸元が大きく開いたベアトップの真っ赤なフレアーワンピースに派手なメイクをした明日香が現れたのである。そして小さなボストンバッグと手にしている。「ええ、そうよ! 私達、今夜は同じ部屋に居ない方がいいと思うの! ついさっき、ネットでこの島から少し離れた小島の水上ヴィラを予約したのよ。今夜はそこに泊るから、翔は1人この部屋にいるといいわ!」そして部屋を出て行こうとする。「待て! 明日香! ここは日本じゃないんだ! 1人で行動するなんて危険な真似はやめてくれ!」翔は必死に懇願して明日香から荷物を奪おうとしたが、次の瞬間――パンッ!乾いた音が部屋に響く。明日香に平手打ちをされてしまったのだ。「あ……明日香……」明日香は冷めた目で翔
「ほらアカリ。動いちゃダメよ、メイクが出来ないでしょ?」朱莉は今、部屋を訪れてきたエミに化粧をされていた。「で、でも……こんな姿。は、恥ずかしくて……」朱莉は消え入りそうな声で俯くと、エミに顔を上げられた。「コラ、下向かないの。メイクが出来ないでしょう?」それから約20分後――「はい、出来た。完成~! あっちに行って鏡を見てごらんなさい?」無理矢理エミに手を引かれ、朱莉は全身が映る鏡の前に立たされて息を飲んだ。「こ……これが私……?」大きな花柄のブルーのノースリーブのワンピースに、緩く巻き上げた髪、そしてアイシャドウにグロスを塗った顔はとても自分とは思えなかった。「ほら~もともと貴女は美人だったけど、3割増し位美人になったわ。さ、それじゃ行くわよ」朱莉の細い腕を掴むエミ。「え? ええ? 行くって……一体何処へ!?」「勿論! 素敵な大人が行く店よ?」エミはパチリとウィンクした。****「あ、あの……私、こんなお店来るの初めてなんですけど……」朱莉はエミに耳打ちした。エミが連れてきたのは高級ショットバーの店であった。客は全て外国人観光客ばかりで、誰もが高級そうな服をみにつけている。「ほら、アカリ。貴女すごくキュートだから皆に注目されてるわよ?」「え? そ、そんな……!」朱莉の顔が真っ赤に染まる。「さあ、アカリ。何を飲む? ……あ、そうだったわね。英語表記だったから……いいわ、私が適当に頼むからね!」エミの注文で、あっという間に2人のテーブルは様々なカクテルで埋め尽くされた。「さあ! ジャンジャン飲んでね!」エミはグイグイと朱莉にアルコールを進めてくる。素直な朱莉は言われるままにカクテルを飲み続け……とうとうテーブルに突っ伏してしまった。「ねえねえ。アカリ……大丈夫なの?」エミが心配そうに朱莉を揺する。「あ……ハイ。大丈夫ですよ~」しかしその目はトロンとし、頬は赤く染まっている。「う~ん……困ったなあ。アカリ、ちょっとだけ電話してくるから、じっとしてるのよ?」エミはタクシーを手配する為に店の外に出た。そして朱莉が1人になった所を男性客が近付いて行く……。その外国人客は舌なめずりをしながらテーブルに突っ伏している朱莉の肩に手を置こうとして、1人の東洋人観光客に止められた。『お前……その女性に何をしようとし
あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたいで最高の気分です」朱莉は笑った。「あら、中々良い表現をするのね?」エミはビールをゴクリと飲み干して星を眺めている。「それにしても……すごくこれって日本では贅沢な事かもしれないですね。この島だから出来る事なんですよね……」満天の星空から、朱莉は目が離せずにいた。「ねえ……アカリ。私、いいものを持ってきてるんだ」「え? いいものって何ですか?」「ほら、これよ」エミがカバンから取り出したのは星座表だった。「え……? これって確か星座表ですよね?」「うん。これで2人で一緒にサザンクロスを見つけましょ!」エミは目をキラキラさせている。「サザンクロスって……もしかして南十字星ですか? 素敵……あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。****「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたい
「昔ね……私には日本にいた時恋人がいたのよ。彼は海がすごく好きな人でサーフィンが得意な人だったの。そしていつかモルディブでサーフィンをしたいってよく言ってたっけ……」エミはいつしか遠い目をしながら星空を眺めている。「ある日、2人でサーフィンに海に出たんだけど、波がすごく高かったのよね。私はまだサーフィンが得意じゃ無くて、波に乗るのに失敗して……」エミは瞳を閉じた。「彼は必死になって溺れた私を助けてくれたんだけど……私を助けた為に力尽きちゃったのかな……。気付いたら彼の姿が消えていたのよ」「!!」朱莉は思わずエミの顔を見た。しかし、そこには何の感情も見せずに淡々とした表情のエミがいた。「彼は結局3日経っても見つからなくて、遺体が無いままお葬式をあげる事になってしまったの。だけど、私はどうしても彼が死んでしまったなんて信じられなくて……ひょっとすると、モルディブにサーフィンをしに来てるんじゃないかなって馬鹿な考え迄持ってしまったのよ」エミは俯いた。「彼はよく言ってたの。いつか南十字星が見える場所で2人で一緒に見つけようって。彼はね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の小説が好きだったのよ。それで、私もその小説を手にして、サザンクロスの話が目に止まったの」「エミさん……」朱莉も銀河鉄道の夜の話はよく知っていた。主人公ジョバンニと彼の親友カムパネルラが銀河鉄道に乗って旅をする話……。(物語の終盤で、銀河鉄道に乗っていた乗客が天上と呼ばれるサザンクロスの駅で降りてしまうんだっけ……。そして結局、カムパネルラは現実世界で友人を助ける為に川に入って、溺れて死んでしまった……)「彼が行きたがっていたこの島で、サザンクロスが見えるこのモルディブに来れば……彼に会える気がして私は1人でこの島へやって来たの。でも本当の事を言えば死に場所を求めていたのかもね」「!」朱莉はあまりにもショッキングな話に言葉を無くしてしまった。「だけど、そんなボロボロになってしまっていた私を救ってくれたのが今の主人って訳よ」突然エミはそれまでのしんみりした様子から、明るい笑顔になる。「あのね、アカリ。私、少しだけ、クジョウタクマって人と電話で話したのよ。だから貴女の複雑な事情も少し知ってる。その上で話をさせて貰うけど。アカリ、貴女……本気で偽装結婚の相手のこと、好きなんでしょう?
築30年の6畳一間に畳2畳分ほどの狭いキッチン。お風呂とトイレはついているけど、洗面台は無し。そんな空間が『私』――須藤朱莉(すどうあかり)の城だった。――7時チーン今朝も古くて狭いアパートの部屋に小さな仏壇の鐘の音が響く。仏壇に飾られているのは7年前に病気で亡くなった朱莉の父親の遺影だった。「お父さん、今日こそ書類選考が通るように見守っていてね」仏壇に手を合わせていた朱莉は顔を上げた。須藤朱莉 24歳。今どきの若い女性には珍しく、パーマっ気も何も無い真っ黒のセミロングのストレートヘアを後ろで一本に結わえた髪。化粧も控えめで眼鏡も黒いフレームがやけに目立つ地味なデザイン。彼女の着ている上下のスーツも安物のリクルートスーツである。しかし、じっくり見ると本来の彼女はとても美しい女性であることが分かる。堀の深い顔は日本人離れをしている。それは彼女がイギリス人の祖父を持つクオーターだったからである。そして黒いフレーム眼鏡は彼女の美貌を隠す為のカモフラージュであった。「いただきます」小さなテーブルに用意した、トーストにコーヒー、レタスとトマトのサラダ。朱莉の朝食はいつもシンプルだった。手早く食事を済ませ、片付けをすると時刻は7時45分を指している。「大変っ! 早く行かなくちゃ!」玄関に3足だけ並べられた黒いヒールの無いパンプスを履き、戸締りをすると朱莉は急いで勤務先へ向かった。**** 朱莉の勤務先は小さな缶詰工場だった。そこで一般事務員として働いている。勤務時間は朝の8:30~17:30。電話応対から、勤怠管理、伝票の整理等、ありとあらゆる事務作業をこなしている。「おはようございます」プレハブで作られた事務所のドアを開けると、唯一の社員でこの会社社長の妻である片桐英子(55歳)が声をかけてきた。「おはよう、須藤さん。実は今日は工場の方が人手が足りなくて回せないのよ。悪いけどそっちの勤務に入って貰えるかしら?」「はい、分かりました」朱莉は素直に返事をすると、すぐにロッカールームへと向かった。そこで作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、帽子にマスクのいでたちで工場の作業場へと足を踏み入れた。このように普段は事務員として働いていたのだが、人手が足りない時は工場の手伝いにも入っていたのである。 この工場で働いているのは全員40歳以
「おい、翔。書類選考が通った彼女達の履歴書だ。ここから最終面接をする人物を選ぶんだろう?」此処は日本でも10本の指に入る、東京港区にある大手企業『鳴海グループ総合商社』本社の社長室である。「ああ……。そうか、ありがとう琢磨。悪いな。嫌な仕事を頼んでしまって」前面大きなガラス張りの広々とした部屋に大きなデスク。そこに書類の山と格闘していた鳴海翔(26歳)が顔を上げた。「お前なあ…。本当に悪いと思っているならこんな真似よせよ。選ばれた女性が気の毒じゃないか」九条琢磨は溜息をつきながら鳴海翔に言った彼は翔の高校時代からの腐れ縁で、今は有能な秘書として必要な存在となっている。「仕方無いんだよ……。早く誰か結婚相手を見つけないと祖父が勝手にお見合い相手を連れて来るって言うんだからな。大体俺には愛する女性がいるのに……。」「まさに禁断の恋だもんな? お前と明日香ちゃんは。普通に考えれば絶対に許されない恋仲だ」琢磨はからかうような口ぶりで言う。「おい、琢磨! 誤解を招くような言い方をするなっ! 確かに俺達は兄妹の関係だが血の繋がりは一切無いんだからなっ!?」翔は机をバシンと叩きながら抗議する。「いや、分かってるって。そんな事くらい。だけど世間じゃ何と言うかな? いくら血の繋がりが無くたって、義理の兄妹が恋仲ですなんて知れたら、ゴシップ記者に追われて会社ごと足元を掬われるかもしれないぞ?」「ああ、そうだ。祖父も俺と明日香の関係に薄々気付いている。だから俺に見合いをするように迫ってきているんだ。考えても見ろよ。俺はまだ26だぞ? 結婚するには早すぎると思わないか?」「ふ~ん。だけど明日香ちゃんとは結婚したいくせに……」翔は苦虫を潰したような顔になる。「祖父も大分年だ……。それに長年癌も患っている。早くても後数年で引退するはずなんだ。その時が来たら誰にも文句は言わせない。俺は明日香と正式に結婚するよ」「そしてカモフラージュで結婚した女性を、あっさり捨てる気だろう?」琢磨は何処か憐憫を湛えた目でデスクの上に乗っている履歴書に目を落した。「おい、人聞きの悪い事を言う。言っておくが、結婚を決めた女性には事実をきちんと説明する。それに自分の人生を数年とは言え犠牲にして貰う訳だから、それなりに手当だって払うし、離婚する際はまとまった金額だって提示する。だか
今日は【鳴海グループ総合商社】の面接の日だ。面接時間は10時からだが朱莉は気合を入れて朝の5時半に起床した。「面接でどんな事聞かれるか分からないからね……。ここの会社のHPでも見てみようかな?」朱莉はスマホをタップして【鳴海グループ総合商社】のHPを開いた。 HPに企業理念やグループ会社名、世界中にある拠点、取引先等様々な情報が載っている。これら全てを聞かれるはずは無いだろうが、生真面目な朱莉は重要そうな事柄を手帳に書き写していき、ある画面で手を止めた。 そこに掲載されているのは若き副社長の画像だったのだが……朱莉は名前と本人画像を見てアッと思った。「鳴海翔……鳴海先輩……」 思わず朱莉はその名前を口にしていた――**** 話は朱莉がまだ高校生、16歳だった8年前に遡る。その頃はまだ父親は健在で、朱莉も社長令嬢として何不自由なく生活をしていた。高校は中高一貫教育の名門校として有名で、大学も併設されていた。朱莉は当時吹奏楽部に所属しており、鳴海翔も吹奏楽部所属で2人とも同じ楽器「ホルン」を担当していた。上手に吹く事が出来なかった朱莉によく居残りで特訓に付き合ってくれた彼だった。 背が高く、日本人離れした堀の深い顔は女子学生達からも人気の的だったのだが、異母妹の明日香が常に目を光らせてい…た為、女子学生達の誰もが翔に近付く事を許されなかったのである。 ただ、そんな中…楽器の居残り特訓で翔と2人きりになれた事があるのが、朱莉だったのである。「先輩……私の事覚えているかな? ううん、きっと忘れているに決まってるよね。だって私は1年の2学期で高校辞めちゃったんだし……」結局朱莉は高校には半年も通う事は出来なかった。高校中退後は昼間はコンビニ、夜はファミレスでバイト生活三昧の暮らしをしてきたのである。「せめて……1年間だけでも高校通いたかったな……」急遽学校をやめざるを得なくなり、翔にお世話になった挨拶も出来ずに高校を去って行ったのがずっと心残りだったのである。朱莉の憧れの先輩であり、初恋の相手。「もしこの会社に入れたら……一目だけでも会いたいな……」朱莉はポツリと呟いた。 ****「では須藤朱莉様。こちらの応接室で少々お待ちください」秘書の九条琢磨はチラリと朱莉を見た。(あ~あ……。可哀そうに……この女性があいつの犠牲になってしま
「昔ね……私には日本にいた時恋人がいたのよ。彼は海がすごく好きな人でサーフィンが得意な人だったの。そしていつかモルディブでサーフィンをしたいってよく言ってたっけ……」エミはいつしか遠い目をしながら星空を眺めている。「ある日、2人でサーフィンに海に出たんだけど、波がすごく高かったのよね。私はまだサーフィンが得意じゃ無くて、波に乗るのに失敗して……」エミは瞳を閉じた。「彼は必死になって溺れた私を助けてくれたんだけど……私を助けた為に力尽きちゃったのかな……。気付いたら彼の姿が消えていたのよ」「!!」朱莉は思わずエミの顔を見た。しかし、そこには何の感情も見せずに淡々とした表情のエミがいた。「彼は結局3日経っても見つからなくて、遺体が無いままお葬式をあげる事になってしまったの。だけど、私はどうしても彼が死んでしまったなんて信じられなくて……ひょっとすると、モルディブにサーフィンをしに来てるんじゃないかなって馬鹿な考え迄持ってしまったのよ」エミは俯いた。「彼はよく言ってたの。いつか南十字星が見える場所で2人で一緒に見つけようって。彼はね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の小説が好きだったのよ。それで、私もその小説を手にして、サザンクロスの話が目に止まったの」「エミさん……」朱莉も銀河鉄道の夜の話はよく知っていた。主人公ジョバンニと彼の親友カムパネルラが銀河鉄道に乗って旅をする話……。(物語の終盤で、銀河鉄道に乗っていた乗客が天上と呼ばれるサザンクロスの駅で降りてしまうんだっけ……。そして結局、カムパネルラは現実世界で友人を助ける為に川に入って、溺れて死んでしまった……)「彼が行きたがっていたこの島で、サザンクロスが見えるこのモルディブに来れば……彼に会える気がして私は1人でこの島へやって来たの。でも本当の事を言えば死に場所を求めていたのかもね」「!」朱莉はあまりにもショッキングな話に言葉を無くしてしまった。「だけど、そんなボロボロになってしまっていた私を救ってくれたのが今の主人って訳よ」突然エミはそれまでのしんみりした様子から、明るい笑顔になる。「あのね、アカリ。私、少しだけ、クジョウタクマって人と電話で話したのよ。だから貴女の複雑な事情も少し知ってる。その上で話をさせて貰うけど。アカリ、貴女……本気で偽装結婚の相手のこと、好きなんでしょう?
あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたいで最高の気分です」朱莉は笑った。「あら、中々良い表現をするのね?」エミはビールをゴクリと飲み干して星を眺めている。「それにしても……すごくこれって日本では贅沢な事かもしれないですね。この島だから出来る事なんですよね……」満天の星空から、朱莉は目が離せずにいた。「ねえ……アカリ。私、いいものを持ってきてるんだ」「え? いいものって何ですか?」「ほら、これよ」エミがカバンから取り出したのは星座表だった。「え……? これって確か星座表ですよね?」「うん。これで2人で一緒にサザンクロスを見つけましょ!」エミは目をキラキラさせている。「サザンクロスって……もしかして南十字星ですか? 素敵……あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。****「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたい
「ほらアカリ。動いちゃダメよ、メイクが出来ないでしょ?」朱莉は今、部屋を訪れてきたエミに化粧をされていた。「で、でも……こんな姿。は、恥ずかしくて……」朱莉は消え入りそうな声で俯くと、エミに顔を上げられた。「コラ、下向かないの。メイクが出来ないでしょう?」それから約20分後――「はい、出来た。完成~! あっちに行って鏡を見てごらんなさい?」無理矢理エミに手を引かれ、朱莉は全身が映る鏡の前に立たされて息を飲んだ。「こ……これが私……?」大きな花柄のブルーのノースリーブのワンピースに、緩く巻き上げた髪、そしてアイシャドウにグロスを塗った顔はとても自分とは思えなかった。「ほら~もともと貴女は美人だったけど、3割増し位美人になったわ。さ、それじゃ行くわよ」朱莉の細い腕を掴むエミ。「え? ええ? 行くって……一体何処へ!?」「勿論! 素敵な大人が行く店よ?」エミはパチリとウィンクした。****「あ、あの……私、こんなお店来るの初めてなんですけど……」朱莉はエミに耳打ちした。エミが連れてきたのは高級ショットバーの店であった。客は全て外国人観光客ばかりで、誰もが高級そうな服をみにつけている。「ほら、アカリ。貴女すごくキュートだから皆に注目されてるわよ?」「え? そ、そんな……!」朱莉の顔が真っ赤に染まる。「さあ、アカリ。何を飲む? ……あ、そうだったわね。英語表記だったから……いいわ、私が適当に頼むからね!」エミの注文で、あっという間に2人のテーブルは様々なカクテルで埋め尽くされた。「さあ! ジャンジャン飲んでね!」エミはグイグイと朱莉にアルコールを進めてくる。素直な朱莉は言われるままにカクテルを飲み続け……とうとうテーブルに突っ伏してしまった。「ねえねえ。アカリ……大丈夫なの?」エミが心配そうに朱莉を揺する。「あ……ハイ。大丈夫ですよ~」しかしその目はトロンとし、頬は赤く染まっている。「う~ん……困ったなあ。アカリ、ちょっとだけ電話してくるから、じっとしてるのよ?」エミはタクシーを手配する為に店の外に出た。そして朱莉が1人になった所を男性客が近付いて行く……。その外国人客は舌なめずりをしながらテーブルに突っ伏している朱莉の肩に手を置こうとして、1人の東洋人観光客に止められた。『お前……その女性に何をしようとし
「そんな誹謗中傷を書き込んで、正体がバレたどうするつもりなんだ? もう少し俺達の社会的立場を考えて行動してくれ」「うるさい! 翔!」明日香は吐き捨てるように言うと、隣室に入って強くドアを閉めてしまった。「明日香! 明日香!」翔がドアをドンドン叩いても中から返事は返ってこない。「ふう……」翔は疲れ切った表情でため息をつくとソファに崩れるように座り込んだ。ここ数日、明日香のヒステリックが起きる頻度が増えてきている。やはり精神安定剤を一時的に中断しているのが良く無いのだろうか?2人でモルディブへ観光に来れば明日香の機嫌も直ると思ったのに……それは大きな間違いだったのかもしれない。しかし、翔の頭の大半を占めていたのは明日香ではなく、実は朱莉の方であった。(可哀そうな事をしてしまった。まさか彼女がガイドの女性とあの店に来ていたなんて。あらかじめ連絡を取り合って、鉢合わせしないようにもっと配慮すべきだったのだろうか……)いや、そうじゃないなと翔は思った。明日香のヒステリーが酷くなっても止めて、朱莉に謝罪するべきだったのだ。あの時の朱莉の怯え切った目と、青白い顔に小刻みに震えていた小さな身体が脳裏に焼き付いて離れない。今の段階の契約では朱莉との結婚生活は6年だ。契約書を見直して、もっと渡す現金を増やしてあげるべきなのかもしれない……。そこまで考えていた時、突然ドアが開けられて明日香が部屋から出てきた。「! あ……明日香。お前、一体なんて恰好をしているんだ? 何処かへ出掛けるつもりなのか?」翔は声を震わせて尋ねた。胸元が大きく開いたベアトップの真っ赤なフレアーワンピースに派手なメイクをした明日香が現れたのである。そして小さなボストンバッグと手にしている。「ええ、そうよ! 私達、今夜は同じ部屋に居ない方がいいと思うの! ついさっき、ネットでこの島から少し離れた小島の水上ヴィラを予約したのよ。今夜はそこに泊るから、翔は1人この部屋にいるといいわ!」そして部屋を出て行こうとする。「待て! 明日香! ここは日本じゃないんだ! 1人で行動するなんて危険な真似はやめてくれ!」翔は必死に懇願して明日香から荷物を奪おうとしたが、次の瞬間――パンッ!乾いた音が部屋に響く。明日香に平手打ちをされてしまったのだ。「あ……明日香……」明日香は冷めた目で翔
結局、この日朱莉は明日香と翔の件ですっかり落ち込み、食欲が薄れてしまい折角の魚料理をあまり食べる事が出来なかった。エミは折角の料理だからと言ってお店の人にコンテナボックスを頼み、今夜のおかずにするから気にしないでと言って笑ったが、朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。「本当に折角連れ出して貰ったのに、申し訳ございませんでした」ホテルまで送って貰うと朱莉は何度も何度もエミに頭を下げた。「あら、いいのよ。全然そんな事気にしないで。それにしても本当に大丈夫? 顔色が悪いから心配だわ。そうだ! 何か栄養のあるものを後で届けてあげるわ!」「いえ、そんなそこまでしていただくわけにはいきません。エミさんも今日は私の事は構わず、お休みください」恐縮する朱莉。「何言ってるのよ、アカリ。夕方6時に迎えに来るわよ。2人で出かけるからね」「え……ええっ!? 出掛けるって……一体何処へ!?」「アカリはまだ若いんだから、もっと羽目を外すこともするべきなのよ。いい? 18時にホテルの部屋に迎えに行くから、体調管理をして待っていなさいよ? 約束だからね?」エミは朱莉に無理やり約束をさせると、車に乗って去って行った。****ホテルの部屋に戻り、ベッドに横たわると朱莉はポツリと呟いた。「ふう……エミさんて意外と強引なところがある人なんだな……」でも、正直嬉しかった。まだ会って数日しか経っていないのに、明日香の前に立ち塞がって朱莉を守ってくれたこと……。あの時、本当は涙が出そうに成程朱莉は嬉しかったのだ。(本当は欲を言えば、翔先輩に庇って貰いたかった……)でも……それは夢のまた夢。鳴海翔の一番は高校時代から常に明日香だったのだ。今更と言われても、どうしても朱莉は期待してしまっていたが、その結果は……? 翔は朱莉を見る事すらしなかったのだ。「もう翔先輩には何も期待したら駄目なのかな……?」朱莉はいつの今にかそのままベッドの上で眠りに就いてしまった—―****その頃、明日香と翔の部屋では――「悔しい!! 何故私がたかがガイドごときに馬鹿にされなくちゃならない訳!?」高級ブランドのショルダーバックを乱暴にベッドに投げつけた。「おい、明日香! 少しは落ち着けって!」翔は明日香を宥めるのに必死である。「煩いわね! 元はと言えば翔がいけないんでしょ! 突然あのレスト
マーケット散策の後、エミが言った。「アカリ、モルディブと言ったら何と言っても魚料理よ。私ね、すごく美味しい魚料理を提供してくれるレストランを知ってるの。お店もお洒落で最近人気なのよ。今からそこに行くわよ。栄養のある料理を一杯食べて日本に戻る頃には2~3キロ位体重を増やす覚悟で食べた方がいいわよ。だって貴女痩せ過ぎだもの」「え? そうでしょうか……?」朱莉は鏡に映った自分の姿を思い出してみた。……そう言えば最近あばら骨が目立ってきたような気がする。「……分かりました。頑張って食べるようにします」「OK、そうこなくちゃね?」エミは楽しそうに笑った。****エミが朱莉を連れてやってきたのは美しい海がすぐそばに見えるシーフード料理の専門店であった。訪れている客は外国人観光客が多く目立っている。「この店はね、リーズナブルな値段ですごく美味しい魚料理を提供してくれる事で有名なのよ? だから外国人観光客にもとっても人気があるの」テーブルに着くとエミが説明してくれた。「アカリ、何を食べたい?」エミにメニューを手渡されると朱莉は頬を染めて俯いた。「……すみません。英語表記で……よく分からなくて……」「あ、ごめんなさい。それじゃアカリ。私と同じメニューでもいいかしら?」「はい、是非それでお願いします」エミは近くを通りかかったウェイターに話しかけ、何やら料理を注文した。「何を頼んだのですか?」話しが終わったエミに朱莉は尋ねた。「それは当然魚料理よ。フフフ…楽しみにしていてね」「はい、分かりました」それから料理が届くまで、朱莉とエミは世間話をしていた時のことだ。何気なく入口を見ると、丁度店内に入って来たカップルが朱莉の目に止まった。(そ……そんな……!)朱莉はその来店客を見て心臓が止まりそうになった。店内へ入って来たのは明日香と翔だったのである。(どうして……? まさかこんな場所で出会う事になるなんて……)心臓が急に苦しくなってきた。呼吸が荒くなる。「どうしたの? アカリ?」突然顔色が真っ青になった朱莉を見てエミが尋ねた。「あ……あの……す、すみません。な、何でも無いです……」「何言ってるの? 何でも無いなんてことないわ! 酷い顔色をしてるじゃない」エミが朱莉の肩に手を置いた時、突然2人に声をかけてきた人物がいた。「あら?
エミが最初に連れて来てくれたのは地元のマーケットであった。モルディブで売られているスイーツや野菜はどれも日本では見た事もない品ばかりで、朱莉はすっかり目を奪われていた。「エミさん。これは何ですか?」朱莉が指さしたのは直径30㎝ほどで薄茶色の果実であった。「ああ、これはココナッツ……これがいわゆる未成熟の椰子の実よ」「ええ! これが……あの椰子の実なんですか?」朱莉は驚いた顔で山積みで売られている椰子の実を眺めた。「あら? アカリ。椰子の実を見るのは初めてなの?」「は、はい……お恥ずかしい事に」頬を染る朱莉。「別に恥ずかしがることじゃないわよ。それじゃ当然飲んだこともないのよね? 椰子の実のジュースが飲めるのはこの青い実の状態じゃないと飲めないの。これがもっと成長すると、表面の色がもっと茶色くなって。周囲に繊維がつくのよ」「へえ~……そうなんですか? ちっとも知りませんでした」「それじゃ椰子の実ジュース初体験してみましょうか?」エミは椰子の実を売っている男性に何か話しかけ、2つ椰子の実を購入した。男性店員は器用に先端だけ皮を剥いて切り落とすと、太くて長いストローを差し込んでエミに手渡す。エミは笑顔で受け取ると、朱莉に1つ手渡した。「向こうにベンチがあるから、そこに座って飲みましょうか?」2人でベンチに座ると早速エミが勧めてくる。「さあ、アカリ。飲んでみて?」「は、はい……」朱莉は恐る恐るストローに口を付けると、中のジュースを飲んでみた。「……」「どう? 美味しい?」「はい! とっても美味しいです。……何だかスポーツドリンクに味が似てますね」朱莉の答えにエミが驚く。「え? 美味しいの? それじゃ私も飲んでみるわ!」エミもストローに口を付けると、勢いよく飲み始めた。そしてストローから口を離す。「まあ! 本当にこの椰子の実は美味しい!」「え……? あ、あの……椰子の実にも美味しいとか不味いとか、あるんですか?」「ええ。そうよ。当たりはずれはあるわよ~。中には青臭くて飲みにくいのもあるからね。でもこの店のは……うん、当たりね! 美味しいわ!」2人は椰子の実ジュースの味を楽しんだ後、引き続きマーケットを散策した――
翌朝―― 7時にセットしておいたスマホのアラームが鳴った。朱莉は目を覚まし、スマホに手を伸ばして音を止めた時にメッセージが届いていることに気が付いた。(誰からなんだろう……?)着信相手は意外な事に琢磨からであった。「え? 九条さん? 何かあったのかな?」急いでメッセージを立ち上げた。『おはようございます。お身体はもうすっかり良くなられましたか? 実は昨晩副社長から連絡が入りました。残りの日数は自由行動をするようにと言伝がありましたので、ガイドの方と残りの旅行を楽しんでください。副社長と連絡を取りたい時は私を通して下さい』朱莉はそのメッセージを複雑な思いで眺めていた。このメッセージの意図するところは、もう自分とは直接メッセージのやり取りをしたくないという意思表示なのだろうか?一瞬その内容を読んだ時、朱莉は目の前が真っ暗になりそうになった。しかし、朱莉はまだ次のメッセージが残っている事に気が付いた。『日本に帰国後、朱莉さんが元から使用していたスマホから私にメッセージを送って下さい。そちらから今後は明日香さんには内緒の2人のメッセージの橋渡しをさせていただきます。尚、念の為こちらのメッセージを読まれた後は削除しておいて下さい』朱莉はそのメッセージを読んでギュッとスマホを胸に握りしめた。(翔先輩……もしかして私に冷たくしていたのは明日香さんから私を守る為だったの?)都合の良い考えであるのは朱莉は重々承知していたが、それでも自分の為に考えてくれたのだろうと信じていたかった――****――午前10時「おはよう、アカリ」ホテルのラウンジのソファに座ってガイドブックを呼んでいた朱莉は顔を上げた。「おはようございます、エミさん」笑顔で挨拶するも、エミは怪訝そうな顔で朱莉を見つめる。「ねえ……アカリ。何かあったの? たった数日会わなかっただけなのに、随分やつれてしまったように見えるけど、まだ体調悪いの?」心配そうに朱莉の顔を覗き込んできた。「え……そ、そうですか……?」体重は計ってはいないが、日本から持ってきた服が緩くなっている事には気が付いていた。食欲も殆ど無く、たいした食事をした記憶もない。「言われてみれば……ここの所、食欲があまり無くて」「駄目よ、それじゃ。まだ若いのに、そんなにガリガリに痩せてたら魅力も半減してしまうわよ。
『いいか? 確かに明日香ちゃんがあの時怪我をしたのはお前のせいかもしれないが、今は傷跡だって残っていないじゃないか。見た目だって普通と全く違いが無いし。あんななのはもう時効だ。そうは思わないのか?』「だが、あの時の当時の明日香は本当に酷い怪我を負って、医者からも一生傷跡は残るって……」『だが、実際はどうなんだよ? 当然男女の仲なんだ。傷跡があるか無いかくらいは分かるだろう?』2人は踏み込んだ質問も出来る程の関係だった。「……今は……殆ど目立たない。だが……」『もういいよ、分かった。悪かったな。昔の事思い出させて』「いや……別にいいさ」『なぁ、本当にそんなんでこの先、ずっと明日香ちゃんのヒステリーに付き合いながら結婚生活を続けていけるのかよ?』「大丈夫だ。あの時にそう決めたからな」自長期気味に笑う翔。『翔……明日香ちゃんがあんな風になったのは……』「何だ?」『いや、何でもない。そんな事より、この旅行の間はもう朱莉さんとは接触するな。明日香ちゃんにもそう言え。朱莉さんに構うなって約束させろ。それ位は出来るだろう?』「ああ。やってみるよ」『全く頼りない返事だな……』「なあ、琢磨」『なんだよ。そろそろ切るぞ? 明日も早いんだから』しかし、翔は続ける。「こんなこと、お前に頼むのはどうかしていると思うんだが……聞いてくれるか?」『……言うだけ、言ってみろよ』「今後はなるべく朱莉さんとも連絡を取り合いたいと思っているんだ。ただ明日香には知られるわけにはいかない。もしばれたら朱莉さんに風辺りが強くなる」『ん? そう言えばお前、一体何所で電話かけてるんだよ?』「ホテルのバーだ」『チッ、ほんとにいい身分だな? まあいいや。それで話の続きは?』「それで今後はお前を通して朱莉さんと連絡を取りたいと思ってる。いいだろうか?」琢磨が呆れた声を出す。『……はあ? おまえ、本気で言ってるのか?』「本気だ。……駄目か?」『……本当なら断ってやりたい案件だよな……。けど朱莉さんを選んでお前に紹介したのは他でもない。この俺だ。ある意味、俺にも責任がある』「それじゃ……いいのか?」翔の顔が明るくなる。『仕方が無いさ。だがな、ずっと続くとは思うなよ? 少しずつお互いの関係を改善させて、ゆくゆくは俺を通さなくても連絡を取り合える仲になれるように努